陶芸家 加藤喜道さん < First interview > | 後編

陶芸家 加藤喜道さん < First interview > | 後編

前編では、加藤喜道さんが器づくりに向き合う原点や、
制作の軸となっている考え方について伺いました。

後編では、器が食卓に置かれたときに生まれる景色、
そして、これから加藤さんが見つめている新たな表現について掘り下げていきます。

 

器は、料理と出会い、人がいることで完成する

使い手への思いを尋ねたとき、加藤さんは「特にはありません」と言いながら、驚くほど深い場所まで言葉を運んでくれました。
楽しい時も、悲しい時も、使いたいように使ってもらえれば嬉しい。けれど、その理由は単なる“自由”ではありません。

「器って器だけで存在させると飾り物になってしまいます」
「器と料理が出会って食卓という景色を作ります」
「それでもまだ、そこで完成ということではなく、そこに人がいるということで、はじめて完成されるものだと思うのです」

器は向こう側に誰かがいることで存在する。向こう側の誰かを思うことで存在する。
料理に託された誰かへの思いを、形として受け止めるものが食器なのだ、と。

そして加藤さんは、ひとりの食卓でさえ同じだと続けます。自分自身を思うことで食卓を整える。
その言葉には、日々の暮らしを丁寧に扱う、加藤さんの価値観がまっすぐに表れていました。

さらに、こんな言葉も引きます。

「器は口に含むものだから、夢や情けがないといけない」

こうした言葉の背景には、加藤さんの日々の暮らしがあります。
ご自宅では、猫と一緒に生活されているそうです。

「猫は、夢や情けの塊のような存在です」

気ままで、甘え上手で、こちらの都合などお構いなしに生きている。
けれど、そばにいるだけで気持ちがほどける。
加藤さんの語る猫の存在は、器について語るときの言葉と、どこか重なって聞こえました。

日常の中で、言葉にしきれない感情を受け止めてくれる存在。
その感覚が、器づくりの根底にも、静かに流れているように感じました。

 ↑加藤さんと暮らす、愛猫たち

 

「好きなものがあるだけで、もうすでにハレの日」

赤絵には「ハレの日」のイメージがある。けれど、加藤さんはそこで終わりません。

「日常の暮らしの中で使うと、昨日と同じ、なにも変わらない今日という日が、『ハレの日』になってくるという器だと思います」

そして、さらりとこう付け加えます。

「もっとも、赤絵の器に限らず、好きな器や服、音楽など、自分の好きなものがまわりにあるというだけで、もうすでにハレの日ですけどね」

この一文は、加藤さんの器の美意識だけでなく、暮らしの哲学そのものを言い表しているように思います。
特別な日を待たなくてもいい。今日を、今日のままで、少しだけ祝ってしまう。その入口として器がある。
加藤さんの赤絵は、まさにその“日常の祝福”を支える存在なのかもしれません。

 

これからの挑戦は「線」から「面」へ

直近で挑戦したいこととして、加藤さんが挙げたのは「面で絵を描く」ことでした。
これまでは線を描き、線で繋ぎ、線で生まれた空間に色を乗せてきた。そこから、輪郭線なしで面として描いてみたい。型染めのようなイメージになるかもしれない、と。

それに合う絵の具や釉薬を探している。慌てず、急がず、それでも探していく。
加藤さんは、変化を“勢い”で呼び込むのではなく、時間をかけて迎え入れていくように見えます。

 

「プロデュースされたい」——出会いの化学反応を求めて

もう一つ、印象的だったのは「誰かにプロデュースされたい」という言葉です。
小説家に編集者がいるように、音楽家にディレクターがいるように——誰かと話し合い、練り上げ、そこから生まれる過程を楽しみたい。相手はギャラリーでも、一般のお客様でも、飲食の関係者でも、器とは縁のない人でも面白い。

「出会うことでの化学反応が起きるのを期待しています」

軸はブレない。その上で、外からの風を受け入れる。
穏やかでありながら、挑戦を恐れない。あなたが最初に記してくれた「探究心・チャレンジ精神」は、ここでも確かに感じられました。

そして最後に、加藤さんはこう締めくくります。

「水野さんとの対話の中で、自分のやりたいこと、自分の仕事への思いのようなものに、改めて気付かされたような気がします」

器は、人と人の間にある。
その言葉通りに、このインタビュー自体もまた、対話の中で何かを“結ぶ”時間だったのだと思います。

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